大國神社の山野草を守る会

過ぎたるは

投稿日時 2009-7-1 14:44:54
執筆者 sanyasou
今年は「世界天文年」とも言われ、書店店頭には7・22皆既日食関連本が所狭しと並べられるようになってきました。残念ながら今回、屋久島にはいけませんが、思い出したことがあります。

2年前私が初めてかの地を訪れた晩、環境問題についての討論会に出席したところ、ある参加者が「屋久島に来て、写真を撮ることに意味がない」旨、あっさりと断言してしまい、唖然としてしまいました。長年の念願叶った私にとっては、それが当たり前以前、ごく自然な行為であったからです。

 その時は、分かるような分からないような主張に首を傾げつつ、それでも(意地になって?)シャッターを切り続けたのですが、今は「正解はひとつではないのでは」と考えています。

 その場所に、ある種、ある個体が存在していた証しとして、写真撮影は有効という点。

 市の植物相調査事業として標本採集の初歩を学ばせて頂き、実際に身体を使って植物と向き合う機会を得たのが昨年の春。

 おし葉にする際、植物の色や形の情報は期待できないので写真に撮ったり、メモしたり、3次元のものを2次元世界に閉じこめる事で失われる情報を補ってやるのです。全長を測り、時には実を食し味を記録、ある種の虫に喰われた食痕も、とにかく残す。

 希少種に関しては、希少だからこそ然るべき研究機関に証拠標本を残すべきという考え方がある一方、現地の個体数によっては採集自体が自然破壊的行為と躊躇われることもあるでしょう。

 ある種だけを切り離し人の手で管理、保護して生かしたとしても、もとの場所の自然生態系の多様性は低下してしまいます。

 調査対象を直接的に傷つけることなく画像として、私のような者にでも無理なくできる「写真標本」という概念に、ふと思いました。

 「縄文杉は標本にできないんじゃない?」




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